まがたま研究会

勾玉の歴史からお土産物まで!

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勾玉の歴史 Ⅷ

勾玉のつけられている時代
今回は勾玉のつけられている時代に注目してみました!!!
奈良時代から大正時代まで日本人はほとんどアクセサリー類を身につけていないんです。
時代劇や本、絵などでこの時代のものにアクセサリーを見た事があるでしょうか?
縄文時代晩期から飛鳥時代の間のものには今と まったく同じ様にイヤリング、ブレスレット、ネックレスがついているのです。また大正時代から現代にかけて身に付けられているのです!!! 
勾玉も同じです。勾玉をつけなくなった話は前回にしました!!!
じゃ~つけはじめは?
誰がつけはじめたのかは残念ながら正確には特定できません。
が……つけはじめられている時代背景を調べてみると様々なことがわかってきたので報告しますネ!!!
まずは大きく環境が変わってきたときなんです。
縄文時代は日本人は狩猟民族でした。そこに大陸の方から農作の技術が入ってきました。そして、ほとんどの人々が農業とかわるまでアクセサリーはつけられているんです。また、大正時代にはほとんどの人が農業だったのが工業が盛んになりサラリーマンに変わっていきました。
時代が大きく変わる時につけはじめられているのです。
このつけはじめの頃の頭蓋骨、後頭部が長くなっているのも特徴です。色々と悩み、頭を使ったのでしょう!!!
今度は人口について着眼しますと…縄文時代初期は2万人しかいなかったのが中期には26万人と増えていくのですが、また晩期には7万人に減ってしまいます。が、農耕が始まり弥生時代に入るといっきに60万人にまで増え、奈良時代(750年)は450万人となりますが、その後緩やかにしか人口は増えません。
1800年は3429万人だったのが、今度1900年にはいっきに9276万人に膨れ上がってきます。
平均寿命について調べてみると縄文時代はなんと14.5歳で、弥生時代に入ると20歳を超えます。その後は緩やかなカーブでしか平均寿命は上がりません。明治時代でも40歳を超えなかったのです。ところが、大正に入りいっきに40歳を超え、1947年で52歳、1965年で70.3歳1999年では80.5歳となっていきます。
身長について調べてみると成人男子においては縄文時代156cmに対し弥生時代、古墳時代は160.5cmまで大きくなりますが、1400年には157cmまで小さくなり1800年には155.5cmとさらに小さくなります。1900年に入ると157cmとまた大きくなり、1930年に160cmを超えます。
つまりアクセサリーをつけている時代は160cmを超えているのも面白い現象だとおもいませか?
naoki

勾玉の歴史 Ⅶ

勾玉の消えた謎…
勾玉は縄文時代から奈良時代まで身に付けられていました。ところが、突如消えてしまうのです。
この謎を解く人物として、聖徳太子(574~622)が挙げられます!
太子の幼少時代には胸にちゃんと勾玉がついている絵がいくつも残っているのに対し、成人になった太子には勾玉を身に付けている絵や像は何一つないのです!!!
いったい何があったのでしょうか?
この時代は蘇我氏と物部氏の2大勢力の時、この両家ともに勾玉について深い知識と理解があり、蘇我氏は5世紀後半から6世紀前半、奈良県樫原市の蘇我遺跡に大規模な勾玉の官営工房をもっていました。
また、物部氏は三種の神器より前からあると考えられる十種の神宝と言われる物を扱い勾玉の使い方を伝授されていると言われています。
いずれにせよ、両家とも勾玉を重んじていたことは間違いありません。ところが、蘇我氏は聖徳太子とともに仏教を広めていきますが、この時、世間では疫病が大流行し、物部氏は国神の怒りだと、お寺や仏像などを焼き払います。
それで蘇我氏と物部氏は大きく対立してしまい、587年、物部の守屋が戦に破れ物部の勢力は衰え、日本は仏教が広く信仰されるようになっていきます。
この時、神道的考え方の強かった勾玉は聖徳太子の手により自ら外したのではないのでしょうか?
聖徳太子の生存中に作られた作られた仏像には、たくさんの勾玉をかけられたものがあり、先祖からの宝である勾玉を仏に捧げたのではないでしょうか?
また、聖徳太子は603年冠位に階をつくり、個人の能力や功労に対し位を与える制度をつくりました。
この時、高位に元からいた貴族・豪族は勾玉をつけているのに、能力により位が上がっていった人達は勾玉をつけていないのは不自然であったのではないでしょうか?
しかし太子が勾玉を外したのは何より勾玉の力や使い方を知らなかった事が一番の原因だと私は考えます。
この事を証明するのは、この場では無理ですが興味のある方はリリーバリーにお越し下さい。
naoki

勾玉の歴史 Ⅵ

形・巴との関係
ある時、中国琵琶(ビワ)の演奏者と出会いました。
中国ではこきゅうと共に、ポピュラーな楽器でその名の由来は (琵)指を外にはじく(琶)指を内に引き寄せるという意味だそうです。その行動の繰り返し行う事により演奏するため、その楽器の名を琵琶と名付けたそうです。
漢字を分解しカンムリを取ると(比)すなわち、外に出す不必要・拒否を意味し、巴はその逆で自分の身に取り入れる様であるそうです。
巴に手へんを付けると(把)となり、把握するの把で、中国では持つという意味だそうです。
漢字は象形文字です。(把)は手に何を持ったのでしょうか?
巴のもとになったものは…?
象形文字で巴と入力し検索してみると東巴文字(トンパモジ)というホームページにたどりつきます。
中国雲南省の西北部、チベット高原の東南にある麗江ナシ族が、トンパ教の経典を書写するのに用いた事からトンパ文字と呼ばれるようになったそうで、このトンパ教はナシ族の原始宗教で太陽・月・星・山・水・風・火・などの自然物を崇拝し万物に霊魂が宿ると信じられていました。
日本の神道にとても似ていますよねぇ~。
何やら、どこまでもつながって行くような気がするのは私だけでしょうか?
naoki

勾玉の歴史Ⅴ 巴との関係について

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巴(トモエ)の形をよく神社や家紋、太鼓、そして屋根瓦に使われているのをよく見かけますねぇ~。これは、最も古い文様のひとつで、時代や由来は確定されていませんが、古くからの言い伝えをここにいくつか紹介しますと、屋根瓦に使っている巴は流水の渦巻き(うずまき)の形を表し、すなわち水と考え、火災からその建物を守ると考えられていたそうです。神社ではよく見る巴は神である太陽の運行や回転を表したものと考えられているそうです。
家紋として巴を使っているのは、2頭形、3頭形、右巻き、左巻きと少しの違いで、約50種の家紋があるそうです。
いづれにせよ、巴は図形から見ても、回転形態を表している様です。
台風を上空から見ると、まさしく巴の形になっているのを新聞やテレビなどで目にしますよね~!!!  
この巴の字も勾玉の形ですよねぇ~!!!
勾玉と巴は同じものなのでしょうか?でも、勾玉の歴史を調べると初期は頭も尾もほぼ同じ太さで、ほぼC字形なのを思い出していただきたい!!!!! 
勾玉を作り出した時は、巴とは考え方が違っています…が…、弥生時代後期から古墳時代になると、頭の部分が大きくなってきます。この時期に巴の形の考え方を勾玉に反映させたと私は考えます。
ますます一番最初に勾玉を作った人の考えを知りたくなってきます???
海外でもこの巴に似た形をよく目にします。
大韓民国やモンゴルの国旗!!! それに中国やインド、アジア地方で見るインヤン(陰陽)これらについて、またの機会に紹介しますねぇ~!!!
naoki 

勾玉の歴史Ⅳ

         古代人はどうやって作ってたの?
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縄文時代は、竹や骨で砂を使って何年もかかって作っていたようです。基になる石を、たたき石(ハンマーストーン)である程度型どり、あとは砂でひたすら削っていたのでしょう…。問題なのは穴で発掘される勾玉の穴はつつみ状><に開いているものが多いようです。これは先のとがったきりのような物で両面から開けているのですが、この方法では、石を裂く力が働くので割れやすくなるため、力を入れずに何日も何日もかけて削ったようです。
ちなみに現在の穴の開け方は凸なダイヤモンドのやすりを電気ドリルを使って穴を開けるのですが、1つ穴を開けるのに、めのうという石で1時間半、ジャスパーで3時間、また、石によっては5~6時間かかるのもあります。
弥生時代に入ると石で作った針が発掘され、弥生時代末期には鉄の針を使っています。古墳時代になると、道具もいろいろ充実し、砥石(トイシ)も使われるようになってきます。(写真) その砥石を日本中から集め用途にあわせ使われています。
少し話は戻って穴なんですが、前に紹介した勾玉以前に出土される大珠全国で約200個出土されているもののほとんどの穴が□(まっすぐ)掘られているのに、
勾玉は><(つつみ状)なのはなぜか?これも謎の1つです。
いずれにせよ、膨大な労力をかけ石を削っている事実は厚い石への思いを感じさせられます!!!!!!
naoki 

勾玉の歴史Ⅲ 形について

勾玉の形は、なぜ、あんな形なのでしょうか? 
それには大きく分けて、3つの説があります。
Ⅰ・石器時代に、動物や魚の骨やキバなど魔除けとして身に付けていたものを石で作り始めた
Ⅱ・月を神様としていた時代、その月の形を身につけるようになった
Ⅲ・すべての物の始まりの形である「胎児」を形とし若さと力を手に入れようとした その他には、釣ばり説、縄文時代・中国から入って来ていた◎形の耳飾りを切って作ったという説!!! どれが正しいのかは最初に作った人に聞くしかありませんねぇ~!!!  石を削り穴を開けた物には勾玉の他に、丸玉・平玉・管玉・臼玉・みかん玉など、十数種類ありますが、どれも回転させても対称に作られているのに勾玉だけは違います。大きさも他の物より、はるかに大きく、石の素材も高価なヒスイを使っています。(丸玉・平玉・管玉等はヒスイで作られている事は稀です。)
勾玉はとても大切に考え、重要視されている事がよく分かります。また管玉と勾玉の関係について触れておくと、管玉(竹玉と呼ぶ事があります)が出土される時は、必ず勾玉も出土されます。つまり管玉だけで出土される事はないのです?!!! この管玉、作る工程を考えただけでもゾ~とするほど困難な物、これにも深い意味がありそうですねぇ~!!! 勾玉・管玉等を組み合わせて作ったネックレスをミスマルといい前回記載したように、神道的には曲がった物を好ましくない考え方がありました。まっすぐを尊き物と考えていたなら管玉をメインにし、高価なヒスイで大きく作ったはずです!!! 勾玉の形は、その形のもつ意味以上にもっと大きな意味合いがあり、それは 何らかの効果的な事象があったのではないでしょうか?

勾玉の歴史Ⅱ

                       まがたまの語源の謎 
古事記(712年)には勾玉、日本書紀には曲玉と書かれています。また、前回紹介した魏志倭人伝では句珠となっています。
いったいどの漢字を使えばいいのでしょうか?
マガタマは漢字が日本に入ってくる前のものであり、漢字はあて字として記されたと考えられます。現在では勾の字を使うことが一般的でこれは神道の考え方の中にまがるという意味を好ましくないと考えていた様で曲の字をあえて使っていないとの考え方が主です。(韓国では現在でも曲玉の字を使っています。)
では、漢字は日本にどのように伝わったのか?
漢字は中国では、B.C.2700年に作られ、B.C.221年に始皇帝によって統一され 広められました。叙福は始皇帝の命令により3千人を連れて、不老不死の薬を求めて旅立ち日本に来ています。この時に様々な文化を日本に伝えています。
漢字も使われているはずです!!! また、400年頃には王仁博士が千文字一巻、 論語十巻を日本に伝えています。という事は、400年すぎには漢字は日本に完全に定着していたにもかかわらず、712年、720年の古事記・日本書紀で異なった文字が使われているのは、ますます謎です!!!  天武天皇の妻・持統天皇は691年、2神社(大神神社・石上神宮)の古文書と16家の系図を没収し抹消したとされます。その後、現存される日本最古の書物、古事記、日本書紀が世に広まります。
 古事記:皇室や豪族に伝わる古い歴史を 稗田の阿礼(ひえたのあれい)に話をさせ太安万侶が記録し、712年元明女帝に献上した。稗田の阿礼は、藤原不比等であると言われてる説があります
 日本書紀:720年に舎人親王(とねりしんのう)が39年かけ国内の貴族や海外向けに書かれたもの                                                      
 いずれにせよ、漢字の意味とマガタマのもつ本来の意味とは異なっていると考えられますそして、発音から考えてみると古来では『マ』人の上に立ち名を知られる象とか、争いを避けるという意味に使われ、『カ』陽気盛んな象、運気強く神の助けあり等の意味があり、ピッタリ!!!!!! 
本当は「マタマ」ではなく、「マタマ」であったのではないので しょうか…!! また、古代サンスクリット語を調べるとマカとは優れていること・大きいこと・偉大なこと、 勝利の意味で他の語や人名の上に付いて美称として用いることもあるそうです。
 天照大神が、スサノオ命と戦いになりそうになった時、全身に勾玉を付けたのはこの
 「マ・カ」の意味を見るとよ~くわかります。
naoki 
 

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